長い寂が訪れた。女房が灯台に火をつけに来ないので、室内は外と同じ暗さだった。火鉢の明るさだけが彼女の表情を知る術だった。闇の中の光を見つめすぎたせいか、そのうち頭の奥がくらくらしてきて、耐え切れず目をそらした。
 ちょうどそのとき、花梨が口を開いた。

「少し疲れてしまったみたい。私、帰りますね。せっかく和仁さんが迎えてくれたのに、ごめんなさい」

 微笑みをたたえ、花梨は衣を肩から取ると、それを和仁に渡そうとした。しかし和仁は受け取らず、目の前の少女を半ば睨むようにして見つめた。

「何があったと訊いている」

 低い声で問うたが、花梨は口を閉ざしたまま、衣を軽く畳んで火鉢から少し離れた場所に置くと、室を出るために踵を返した。和仁は咄嗟に立ち上がって花梨の腕を掴んだ。

「神子」
「帰ります……和仁さんもお休みする時間だし」
「神子!」

 本当はやりたくなかったが、力を込めて無理矢理に花梨を向き直させた。彼女は身体を強張らせ、和仁を見上げた。怯えているのが分かったが、掴む手は放さなかった。

「和仁さん?」
「何かあったのだろう。八葉が、神子の力を乱用でもしたか」

 花梨はぶんぶんとかぶりを振った。

「そんなことないです。私は泰継さんたちのお手伝いをしただけ」
「私は思うのだ。誰かが神子を頼ることを、お前自身は厭っているのではなかろうかと」

 和仁の言葉に、花梨は急に泣きそうな顔になった。心では動揺したものの、今だけはしっかりしていなくてはならないと和仁は自戒し、「そうなんだな?」と静かに訊いた。
 花梨は唇を噛み、うつむいた。

「私は……」
「私など、霊力もろくに持たない無力な男だ。稀有な力を宿すお前の気持ちを汲み取ることはできないが、お前は本来、何かが傷つくことを恐れている人間だろう。呪詛を払うということは、その力を使って呪詛と戦うということだ。なぜ、八葉や陰陽寮の頼みを聞いた。お前は京のために充分戦ったではないか」
「でも、私の力が誰かの役に立つのなら」
「それは偽善だ」

 和仁は、きっぱりと言った。花梨を傷つけるのは嫌だったが、その慈悲深い性格が災いして彼女が自ら選び進もうとする苦難の道を塞ぐために、自分が嫌われてでも彼女を止めなければならないと思った。

「その心に少しでも抗いがあるのならば、それは、その時点で偽善となる」

 それはきっと、花梨のことを大事に想うがゆえなのだろう。知らず知らずのうちに、和仁は、一人の男として、花梨を守りたいと思うようになっていた。彼女を支えていた八葉のような力も無く、人を呪ったという悲しい罪を背負う愚かな人間でしかないが、それでも、いま生きているのならば、自分が汚してしまった世界に対するせめてもの罪滅ぼしとして、この胸で鼓動する命を自分が本当に大切だと思うものに使うべきだと、そう思っていた。こんなにも貴い願いを和仁に抱かせてくれる花梨の存在が、今や生きるための希望の光になっていた。
 たとえ自分が消えてしまったとしても、この美しい希望の光だけは、この場所から消したくない。

「神子の力は、お前が――花梨が望んで得たものではなかろう」

 急に、花梨の嗚咽が聞こえた。深くうなだれ、肩を震わせながら、彼女はしくしくと泣き始めた。

「ひ……
 ひとが、死んで、いたから……」

 和仁は花梨の肩を両手で押さえ、その場に座るよう促した。花梨はゆるゆると腰を下ろし、両手で顔を覆い、背中を丸めた。和仁も彼女の前にしゃがみ込み、尋ねた。

「人が、死んだ?」
「呪詛のあった船岡山まで、みんなで行きました。山に入ったときから、ものすごく嫌な気がして。とても苦しかったけれど、泰継さんに支えられながら、前もって陰陽寮の方が見つけていた場所に行きました。そうしたら、そこに……」

 身体中に呪いの言霊を針で刻みつけた、血まみれの女の死体があったという。おそろしいまでの邪気を放ちながら、自らの死体をもって女は山の上から誰かを呪っていたらしい。
 花梨は幾筋もの涙を流し、震える手を唇に当てた。

「こ、こわくて……本当にこわくて。私、気を失って……。でも、私じゃないと浄化しきれないから、どうにか泰継さんと協力して、浄化しました。それからのこと、あまり覚えていなくて、気がついたら紫姫の館に帰っていました。しばらく寝込んでいたの。八葉のみんながいたわけではないし、呪詛の力があまりに強かったせいで、私の身体が耐え切れなかったって、あとから深苑くんに言われました。
 私、自力で山を下りられなかったから、陰陽寮の方たちにすごく迷惑をかけたみたいで……」
「迷惑?」

 和仁は眉をひそめた。

「迷惑なわけがなかろう。神子は浄化を行ったのだ。それのどこが迷惑だというのだ。もし陰陽寮の者たちがそのようなことをぬかすのなら、私が直々に訴えに行く。
 お前は今回、無理をしすぎた。なぜ、あの陰陽師にはそれが分からぬのだ。あの者が人でないゆえか? そもそも陰陽寮は何の権限があって神子にそのような酷な仕事を押しつけるのだ。本来ならば、己らで解決しなければならない事件だろう」
「押しつけてなんていません。頼まれたから私が引き受けただけです」
「だが事前に内容が分かっていた案件だ。奴らは前もってお前にそれを説明したのか?」
「……」

 沈黙が答えだった。彼女はその巨大な力ゆえに、いいように陰陽師たちに使われてしまったのだ。もし残酷な事件の全容を事前に話せば、花梨が断る可能性があった。だから彼らはあえて言わなかったのだ。
 無惨な死体が記憶に焼きついたのだろう。返せる言葉が無くなってしまったらしく、頬に流れる涙を指先でこすりながら、花梨はすすり泣いているだけになった。和仁は苦々しくその様子を見つめ、いつもの明るい無邪気な表情が悲嘆で歪んでいるのを目の当たりにし、耐え切れなくなって、ほとんど衝動的に花梨の身体を抱きしめた。

「神子」

 腕の中に収まる彼女は、驚くほど小さかった。それと同時に、自分が男として成長してきたことを感じたのだった。

「私は、神子が苦しむところを見たくない」

 とんでもない行動に出たというのに、照れや羞恥はなかった。ただ、哀れな少女に向けた深い同情だけがあった。

「お前の苦しむところだけは絶対に見たくない」

 放つ言葉は、祈りだった。
 花梨は抵抗することも声を上げることもなく、和仁の胸元で泣き続けていた。和仁は髪を――この京ではありえないほど短い女性の髪を――撫で、まるで小さな子どもに対してするように、あやしていた。わがままで稚拙でどうしようもなかった自分が、そんなことをしていることが心底不思議だった。自分は一体いつ、こんな人間になれたのだろう。彼女との触れ合いの中で、次第に変わっていったのだろうか。相手を大切にしたいと、守りたいと思う心。これが人を慈しむということなのだと、和仁は、今まで視界を覆っていた霧が晴れるような清々しい感じを覚えた。それは、彼女がかつて和仁の額に自分の額を合わせ、何者かに祈りを捧げながら、罪深き男の穢れを静かに払っていたときと同じ感覚だった。
 和仁は、少し身を離すと、花梨の顔を上げさせた。涙で濡れた表情が見える。間近で彼女の双眸を見据え、そこに抵抗がないことを見て取ると、彼女の額に、その柔らかな前髪越しに、小さな口づけをした。そして目を閉じ、深く祈った。彼女の幸せを。神子としてではない、花梨という少女自身の安らぎを。